ちょっと前の話になりますが、コルクラボ *1 のゲストに呼ばれて、佐渡島庸平さんと対談しました。そのときのことを書き起こしてもらいましたので、以下に掲載します。

corklab1

*1:コルクラボとは、コミュニティ運営に必要な知識や技術を勉強するための場として、コルク・佐渡島庸平さんがスタートさせたコミュニティです。


少年時代のこと

佐渡島:どんな子ども時代だったんですか?

三宅:今も変わっていない部分はありますが、幼稚園までは人と関わるのが苦手な子どもでした。でも、小学校では少年野球をやったり、児童会の副会長をしたりと普通の小学生を過ごしていました。

中学に入ってから、勉強のしすぎか、思春期特有の不安定さからか、神経症気味になってしまった。そこから本の世界にのめり込んだのです。小説や哲学書、さらに数学書、科学書です。自分を立て直すすべを求めていたのだと思います。特にゲーテ、そこからヘッセなどのドイツ文学に親しみました。実家は精神科医で、今考えると僕も知能に関わる仕事なので、遠いけれども似た仕事をしていますね。本当は病院を継がないといけなかったのですが、反抗期で、その道にはいかなかった。そのことを僕は長い間、後悔していたのと、申し訳ない気持ちがずっとありました。今でもあります。

中学3年生の頃から世界を支える「真理」を知りたくて、哲学や数学の道に入っていきました。自分の拠り所を求めて、極端に走ったということでもあります。でも、どの本も、どのテレビも、どの映画も、みんなはっきりとは真理とは何かを言ってくれない。ところが、デカルトは「我思う故に我有り」と言って、確かなものは自分だとして、そこから真理を探求していった。そうして近代の学問を体系立てていきました。デカルトのアプローチは明白で、それが僕の胸を打ちました。

10代は活字の記憶しかないです。カバンに文庫本をたくさん放り込んで、電車の中から授業中、そして帰宅後も読みまくっていました。それが自分を立て直すという意味ではムダだと気づくまで、ずいぶん時間がかかったんですね。

佐渡島:ゲーテの他には何を読んでいたんですか?

三宅:中学時代は太宰治のファンでした。高校に入ったら、輪をかけて活字中毒に……。この頃は(確固たる)「真理」が得られれば自分を立て直せると思っていたんです。哲学に加えて、大学で数学や物理を学んでいきました。

つくばにある高エネ研(KEK、大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構)にこもって加速器を使って実験をしていました。その後は、東大の超電導の研究室に入りました。

ただ、しばらくすると、自分を立て直すのは無理なんじゃないかって。あれこれと求道者のように求めることをやめてしまいました。すると案外すっきりするのですね。そこで、自分を立て直すことをやめて、代わりに”安定している知能”を作ろうと思うようになって、人工知能の研究に入っていきました。自分で抱えていて悩みを、人工知能に転嫁したと言ったらいいでしょうか。

佐渡島:人工知能を作ろうと人工知能の研究を始めて、それでゲーム業界に入ったのはどうしてですか?

三宅:研究といっても自分で勝手にしていたのです。超電導の研究室だったのに、勝手に人工知能学会で発表したりしていて、研究室にいにくくなってしまいました。自業自得ですね。当時、とても生意気な青年でした。結局、研究室を出ることになりました。博士課程の最後までいて、博士号を取らずに出たので、とてもみじめな時代でした。

ゲームのパッケージに「人工知能搭載」とよく書いてあって、きっとゲームにはこういう感じの、ああいう感じの人工知能が入っていると、勝手に想像していました。そこで「これだ!」と思って入ったのです。でも、ほとんどの場合、アカデミックで研究していたような人工知能が実装されていなかったという……。そこで、自分が作ることにしました。でも、あとでわかるのですが、ゲームの人工知能は必ずしもアカデミックな人工知能技術でなくても、コンテンツとして成立していれば良く、さまざまな開発者の工夫が入っていました。そういうことがわかるまで随分と時間がかかりました。ですので、研究畑からゲーム産業に入ってくる方には、ゲーム産業における人工知能は、アカデミックの尺度で測ってはいけないとよく言っています。

佐渡島:ゲーム会社に入って、すぐに人工知能を作れたんですか?

三宅:入社前から、当時、難航していた人工知能の作成が僕の仕事だと聴かされていまいた。しかし、当時、日本語の文献はほとんどなく、海外の文献も限られていました。土日は書店を回って、いろいろ本を読み漁っていました。当時は、日本のゲーム産業では、ゲームAIという分野が明確になかったのです。囲碁や将棋のAIはありましたが、ゲームのキャラクターAIという分野はありません。各ステージの各キャラクターごとにロジックを書いていた時代です。統一的なキャラクターAIを作ることが目標として与えられましたが、当時相談相手もいなくて、一人でずっと考えていました。でも、社内で人工知能が気になった人が僕のデスクに来てくれたり、社内でセミナーを始めて、そこに来てくれたり、そうした人たちは今に会社で一緒に働くメンバーの元にもなっています。

学生時代の三宅が読んでいた本のうちのお薦めの11冊!

book01
ファウスト〈第一部〉, 新潮文庫, 1967/11/28, ゲーテ (著), 高橋 義孝 (翻訳)
(三宅メモ)ゲーテは世界を有機的全体に捉えようとする詩人と、同時に実務的・科学的視点を持ち合わせた巨人で、中学の頃から、ゲーテの世界観には大きな感銘を受けました。

book02
数学をつくった人びと〈1〉, ハヤカワ文庫NF, 2003/9/1, E.T. ベル (著), Eric Temple Bell (原著), 田中 勇 (翻訳), 銀林 浩 (翻訳)
(三宅メモ)数学者の生涯と仕事を見事に融和して描いた名著で、何度読んだかわかりません。デカルトやカントール、ブールなども取り上げられていて、哲学的な領域の導入にもなりました。

book03
デミアン, 岩波文庫, 1959/4/5, ヘルマン・ヘッセ (著), 実吉捷郎 (翻訳)
(三宅メモ)とりあえず自分自身に悩んでいたら、僕はいつもこの本をお勧めします。僕も十代で渡る危なっかしい橋をこの本が守ってくれました。

book04
山月記・李陵 他九篇, 岩波文庫, 1994/7/18, 中島 敦 (著)
(三宅メモ)山月記は特に暗記するぐらい覚えていますね。中学一年の頃だったかと思います。とてもロマンティックですね。なので、『文豪ストレイドッグス」のような仕事をしたいです。

book06
晩年, 新潮文庫, 2005/10, 太宰 治  (著)
(三宅メモ)太宰は永遠の思春期を生きた不思議な大人だと思います。中学二年の頃にほとんど読んだかと思います。晩年はほとんど処女作ですが、小説という虚構ぎりぎりで作家の真実を描こうとする最も文芸的な作品だと思います。

book05
ぼのぼの, バンブー・コミックス, 1987/3/1, いがらし みきお (著)
(三宅メモ)『ぼのぼの」は中学二年の頃に学校で少し流行っていました。哲学的なマンガで、今でも好きな作品です。

book07
アーシアン, ウィングス・コミックス, 1988/3/1, 高河 ゆん (著)
(三宅メモ)自分はどんなマンガが読みたいのだろうと、探し当てた一冊です。この中に多紀というアンドロイドが「自分が死んだら人間と同じ場所に行けるのかな?」という問いを発するのですが、この問いは今でも僕の中で反響しています。

book08
量子の謎をとく―アインシュタインも悩んだ…… , ブルーバックス, 1990/10, F.A.ウルフ (著), 中村 誠太郎 (翻訳)
(三宅メモ)中学三年のクリスマスの頃に呼んだ本です。本当にわくわくするように量子力学の世界に引き込まれる名著です。少しだけ安定していた時期です。

book09
ファウンデーション―銀河帝国興亡史〈1〉 , ハヤカワ文庫SF, 1984/4, アイザック・アシモフ  (著), 岡部 宏之 (翻訳)
(三宅メモ)中学三年の頃は、SFにのめり込みました。レムの『ソラリスの陽のもとに」とか、ディックの短編とか、その中でも、数学を駆使して歴史をインタラクティブに変化させて行くファウンデーションシリーズは、全部読みました。ロボットものは大学になって原書で読みました。この二つはあとで融合するのです。

book10
科学と仮説, 岩波文庫, 1959/1/1, ポアンカレ (著), 河野 伊三郎 (翻訳)
(三宅メモ)こちらも中学三年の頃に学校の数学の先生の勧めで読みました。ポアンカレは言わずとしれた19~20世紀の大数学者ですが、一般書でも名著を残しました。「科学と仮説」「科学と価値」「科学と方法」「科学と芸術」です。科学自身を外から考える習慣をこの本から学びました。

book11
暴力批判論 他十篇, 岩波文庫, 1994/3/16, ヴァルター・ベンヤミン (著), 野村 修(翻訳)
(三宅メモ)

壊れない知能は知能ではない

佐渡島:今、ゲームのAIはどういうふうに作られているんですか?

三宅:一つは、エージェント・アーキテクチャというロボット工学の技術を用いて、センサー、認識、意思決定、運動生成、記憶の部品に分けて、それらを連携したシステムの中を、センサーが集めた情報が駆け抜けて行き、最後は行動として外に出す、ような、つまり情報が水だとすれば、知能は水車であるような、そんな構造で作っています。

知能っぽいものを作るための浅いモデルはたくさんあります。僕も普段はそれを使っています。でも、その奥にもっとあるんじゃないかと考えています。ただ、それを追求するとどんどん処理速度が遅くなったりするので……。

今は安定している人工知能、壊れない知能は知能ではないのではないかと思うようになってきました。そんなことを考えているのは、世界で自分だけだと思いますが。自分は本当の知能を作りたい。そのためには、不安定さ、あやうさを持つ人工知能、たとえば、ふさぎこんでしまう人工知能とか、情緒不安定な人工知能を目指してみることがたいせつだと思っています。

知能を知的機能と思っている人は、その機能、つまりfunctionを実現できればいいと思っている。その人たちにとっては、アルゴリズムで機能が実現できれば十分なんです。そして、それは世の中に役に立つので、とても良いことです。しかし人工知能の開発者のうち、ごく一部のロボット系、キャラクターのAI系を作る人は、本当の知能そのものを作りたいと思っています。それが可能だと思っているのは、さらに少ないかもしれません。

しかし、ゲームのキャラクターAIの特徴は、ゲームのキャラクターは本当のキャラクターでなくていいんですよ。プレイヤーから見て、そのキャラクターをリアルに感じられるのが一番重要なのです。つまり、ユーザーエクスペリエンスを作っている。たとえば、プレイヤーの足場を悪くしたり、危機に陥れたりして、知的鋭敏性を高めた後でAIを持ったキャラクターをぶつけると、そのキャラクターをより知的に感じるようになります。

佐渡島:今の話を聞くと、人も知的に振る舞っているだけという見方もできるのかなと思います。

三宅:そうですね。見る人にそう感じられればいい、というのであれば、「演じる」だけで十分な場合もあります。カットシーンと呼ばれる映画的なシーンでは実際、あらかじめ決められた演技をします。しかし、インタラティブな戦闘や会話ではそのように行きません。自律的な行動が求められます。キャラクターAIは役者として、そして、自律的な知能として、双方の在り方が求められます。

知能とは何か、と問うと、たとえば人間はタンパク質の固まりと言ってしまえばそうです。物や人の存在、これは全部が情報だという人もいれば、全部が物質だという人もいます。

テセウスの船という話をよく僕は出しますが、英雄テセウスの船は古くなった部品を入れ替えて、いつも新しい状態にする。では、すっかり新しい部品に入れ替わったテセウスの船は元のオリジナルのテセウスの船と同じなのか? 部品を入れ替えているので物質的には違うものになっている。でも、マストの位置や船の形、構成するパーツの形や位置、構造(=情報)は同じです。

人間もこうして、人間の形をしていても、細胞は日々入れ替わっています。現在の自分は半年前の自分と全く同じなのか? 新しい細胞は古い細胞と同じ役割を果たすかもしれませんが、半年の間に、自分に「変化」があるはずです。経験や記憶、それが自分に与える変化を飲み込んで、人は生きています。

つまり、人間を細胞、組織を構成する要素から科学的に記述できるからと言って、それ自身が実体とは限らないわけです。身体の細胞がすべて入れ替わっても自分は自分であるという。ではその根拠はどこにあるのか?それは物質によらない情報や構造が、そしてある人はそれを魂と呼ぶかもしれません。

人工知能の次のステップは”世界に根を下ろす知能”

佐渡島:そもそも、知能と知性の差は何ですか?

三宅:知能はfunctionalなもの。知性というのは、この世界に属して、許されて存在しているもの。自律的に存在していること。

佐渡島:三宅さんの考える、次の人工知能のステップはどんな状態ですか?

三宅:インプットされたものをただ単にアウトプットするだけでなく、人工知能自身が1つの知性体として世界に根を下ろし、身体性を持った存在になること。

人間も身体を通して、環境世界からさまざまな情報を取り込んでいます。その情報によって、現実を、世界を作っていると言えます。意識に上ってくる情報だけでなく、無意識のレベルで受け取っている情報もある。そういったさまざまなレベルで情報が入ってきて、情報が渦のように滞留する場所があるんだと、東洋哲学、東洋思想ではそう教えます。

情報の渦を人工知能の中に作ってあげることで、世界に根を下ろした人工知能とすることができるのではないか。こういう考え方は西洋にはあまりありません。そうした考え方をゲームAIに持ち込みたいのです。

佐渡島:ゲームのキャラクターAIに身体性は必要なんですか?

三宅:痛みや意識を持っていないというのは、ゲームをプレイしているユーザーにはわかります。たとえば、今のゲームはキャラクターのモーションを途中でやめられないんです。そういうことを見ている間にユーザーはキャラクターが身体感覚、痛みを持っていないことに気づく。僕は、そうではなくて、ユーザーが「こいつ、痛みがあるんじゃね?」と思えるようなキャラクターを作りたいと考えています。

佐渡島:それはどのくらい時間がかかるものだと思っていますか? 三宅さん自身ができることなのか、あるいは生きている間に誰かによって実現されるというような世代を超えた目標なのか?

三宅:自分が実現できるかはわからないですが、誰かが実現したものを生きているうちに見れるとは思っています。自分は今、そこにつながる基盤を整えていると思っているんです。

本を出すのは、旗を立てること。ここに価値のある戦いがあるんだ、と示すことです。仲間はあまり集まっていないのですが、それでも少数でも賛同者、協力者、理解してくれる人は少しずつ増えています。

人工知能は縦串と横串の学問

佐渡島:どうして人工知能という分野に人が集まらないんですか? 難しいから?

三宅:人工知能は、本当は簡単な学問です。数学的に難しいのはニューラルネットだけ。

ただ、一歩踏み込むと人工知能という学問の外に出てしまう。「知能とは何か」という問いに誰も答えられないので、人工知能という森で、いろいろな方向にいってしまって、いつの間にかその森から出て、人工知能という領域から去っていってしまう。「人工知能の中心」がわからないのです。それを探求するのが「人工知能のための哲学」でもあります。

人工知能は、縦串と横串が必要な学問であることが難しいところなんです。

佐渡島:その縦串と横串についてもう少し教えてもらえませんか?

三宅:人工知能という学問領域には横串と縦串があります。縦串は単体の技術、ニューラルネットなど。これは体系化されやすいし、学びやすいです。

一方、横串は「知能とは何か」と問う方向です。こちらは、昔の人工知能ブームのときには取り組まれていて、当時はフランスの哲学者が人工知能について議論したりしていました。現在では、そうした活動は嫌われています。今の科学者は基本的に縦串の方向にあって、哲学的に人工知能の討論を行うことで”議論した気持ちになる”ことを嫌います。

しかし、技術と哲学の両方あってこその人工知能なんです。半分は文系で、「知能とは何か」がわかっていないのに人工知能を議論するとは何事だ、みたいな話なのです。そして、そういう話を科学者は嫌がります。

「自分の仕事は”人工知能を堕落させる”こと」

三宅:デカルトは我を確立した上で、世界と関わろうとしました。我思う故に我あり、自分があった上での世界との対決です。現象学は、世界との関わりの中で自分を定義しようとします。デカルトから300年かかって、やっとそこにたどり着いた。

東洋哲学はどうかというと、仏教などずっと自分の内面のモデル(唯識論など)を提唱し続けてきました。東洋哲学はどちらかというと客観性が薄いので、西洋から見ると学問として認めづらいのは当然なのですが、人間の内面について貴重な知見に満ちていいます。人工知能にそうした東洋哲学のモデルを持ち込むのは、良いアプローチだと思っています。他に、そういうことを言っている人はあまりいませんが。

佐渡島:具体的にどうするんですか?

三宅:人工知能は執着もなければ欲望もない。つまり、これは仏教で言えば、解脱しているわけです。自分の仕事は、その人工知能を堕落させること。

実際、プレイヤーに対して敵対するように偏った情報を人工知能に与えるというのが、キャラクターAIの開発の仕事です。たとえば、プレイヤーを見た瞬間に噛みつきたくなるようにする。環世界モデルと言いますが、生物には特定の対象によって喚起される行動があります。

環世界にあるそういう関係性のような関連付けをキャラクターとゲーム世界に間に積み重ねていくことで、執着が生まれていく。

佐渡島:その「環世界」についてもう少し教えてください。

三宅:たとえば、人間は食べ物を見たら食べ物として見えるし、異性を見たら異性と見ます。そういうふうに、あらかじめ生物は、環境の中の特定の部分を認識し、特定の部分に行動を働きかけます。これを生物学では環世界と呼びますが、哲学(構造主義)では「分節化」という言葉で表します。つまり、人間はそれと認識する前に対象を識別する、分節化して、世界を見ているわけです。分節化がどこで行われているかというと、ソシュールは言語(文化)だと。そして、井筒俊彦は、身体と言語とで、二重の分節化がされるのだと言います。その上に知性があるのだと。

分節化が悪いと言っているわけではなく、だからこそ、人は行動の契機を得るわけです。

佐渡島:実際に、対象と行為のそういった関連付けをプログラムしていくわけですか?

三宅:僕はエンジンやフレームワークとしてそういう仕組みを用意し、ゲームデザイナーがそれを使ってキャラクターを設計していきます。

佐渡島:そのあたりがちょっとわかりにくいんですが、ゲームのディレクターやデザイナーなど、他のメンバーも、(人工知能を堕落させる、身体性のある人工知能を作るという)三宅さんと同じ価値観で作ってくれるものなんですか?

三宅:必ずしもそうではありません。そういう哲学的な次元は、設計者である以上はわかっていなければなりません。またスマホゲームなどは、キャラクターにそこまでの知能は必要ないです。自分が作っているような、制作に何年もかけて、世界観、ゲームの世界をきちんと作るゲームには、自律型AIが必要になってきます。そういったAIの設計では、モンスターやキャラクターの嗜好や生態というものを深く考え続けることになります。その「深く考える」には、哲学的バックグラウンドが必要なのです。東洋と西洋をまたぐような。

ただ、自分はあまりに突っ走ってしまうので、誰かが止めるという構造が多いです。「三宅さん、今回のAIには意識はいらないですよ!」とか言われて。

佐渡島:どういうゲーム体験をしたら、三宅さんのように意識を持った人工知能をって考えるようになるんでしょうか?

三宅:小学生の頃は、『ゼビウス』とか本当に敵が思考していると思っていました。だから、ゲーム業界に入って、「考えてないじゃん!」ってわかってショック。

自分は小学生からベーマガを読んでいたようなスーパープログラマーに比べると、文系だし、思考も遅い。でも、だから「この知性は本当に知性なのか?」みたいなところに引っかかることができたので、良いと思っています。

佐渡島:三宅さんがよく講演で話している「メタAI」について教えてもらえますか? 昔からあったものなんですか?

三宅:メタAIは昔からあって、たとえば『ゼビウス』はユーザーのスキルを判定して、それに応じて、敵の数や種類によってゲームの難易度を変化させていました。こうした古典的メタAIに対し、現代のメタAIはキャラクターAIに対し、監督と役者の関係と言えます。役者であるキャラクターAIにこうしろ、ああしろと指示をする舞台監督のようなもので、ゲーム全体を見て流れを作る、ゲームバランスを制御するAIです。こうした現代的なメタAIが提唱されだしたのは2007年頃からですね。

ゲームデザイナーの仕事は、ある意味、メタAIをより賢くするというものになっていく。これまでゲームは画一な体験をユーザーに与えてきていた。しかし、これからは、何百万のユーザ一人ひとりに適応させたゲーム体験を提供できるか、が課題となります。それは人工知能があってこそ、だと思います。

デジタルゲームの使命は新しい体験を与えることです。それをデザインするのがクリエイターの仕事です。そこに、エンジニアとクリエイターの対立がいつもあるべきで、エンジニアはこれまでクリエイターがやってきた仕事をすべて人工知能で実現してやる、と宣言する。クリエイターはその上でもっと新しいものを作っていく。その対立が未知なるものを生み出すのです。

佐渡島:人工知能が何かを幸せだと感じるとしたら、それはどういう状況だと思いますか?

三宅:生物というのは、自分の存在を髪の毛の先までフルに活用できていることが幸せなのではないか。すると、人工知能も、世界にフルに接続してあげて自分の力をフルに活用できる状況を作ることが、人工知能の幸せになるのではないかと思います。世界とつながって自分の力をフルに機能できているということは、世界に受け入れられているということでもあるので。

佐渡島:自分の存在をフル活用することが人の幸せだとすると、三宅さんの幸せも?

三宅:何かやっていないと、自分は安定しないですね。年老いて、ひなたぼっこしているとか想像できない。できるだけ迷惑をかけないように、走り続けたいです。自分のように安定しない人は、安定や休息を求めて自滅するよりは、とりあえず走り続けるほうがよいと思っています。

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※この記事は清木昌さんのメモを元に、大内孝子さんに構成していただきました。

 

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